へんろ日記
Henro Pilgramage March ~ April 2019
3月上旬。東京から夜行バスで大阪の母の実家に向かう。おばあちゃんにも、伯父さんにも、
伯母さんにも、ええ!お遍路に行くの?歩きで?1人で?と驚かれる。なんでまたお遍路、と
いささかわたしの突拍子のなさに呆れたようでもある。おじいちゃんは、ほう!と言ってじーじも
一緒に歩きに行こうかなどと言い出し、おばあちゃんが止める。そう、お遍路だ。
お寺と神社の違いもよくわかっていない、もちろん1日に20キロ以上なんて歩いたことない、
好奇心だけは人一倍旺盛な大学4年生が、数ヶ月前にインドにいときからこの日本最古で最大の巡礼の道を辿ると心に決めていたのだ。時期としては卒業旅行だ。桜の見頃である。
0日目
大阪から淡路島、大鳴門橋を通って徳島にたどり着く。
四国霊場第1番、霊山寺から徒歩1分ほどのところにあるお遍路宿に泊まる。宿主のおばちゃんは元尼さん。遍路を100回以上廻った四国八十八箇所公認先達のしるしである、
豪華な錦の納札を名刺がわりにいただいた。
100回以上廻ったといっても、歩きではない。お遍路さんの約8割を占める年配の方は車遍路が一般的である。むしろ、歩きのお遍路さんは交通の便が発達した21世紀においては絶滅危惧種のような存在だ。しかも、日本人の若者なんて。
あとでわかることだが、日本人のうら若い女性が1人で歩き遍路なんてかなり珍しいらしく、地元の人々はびっくりたまげてあれよこれよとお世話してくれるのだった。宿のおばちゃんはポケトークを携帯していた。日本の若者は極端に少ないが、最近外国人のお遍路さんがやたらに多いらしい。やはり、世界でブームのジャポニズムである。
昨夜から歩くぞ歩くぞと意気込んでいたのに、この日歩いた距離は10キロもいかなかった。
ワケはこうだ。まず、初日の朝からしっかりした雨に降られた。
1番で昨夜の宿のおばちゃんにお参り作法を教えてもらい、お遍路グッズを買ってさあいざ出発といった時点ですでに小雨。2番のお寺でバックパックを下ろして、レインコートを羽織る。3番と4番の間、雨の降る中、農道脇の白軽トラの前で突っ立っていたおじちゃんに道を聞くと、「雨じゃけん、4番まで乗せてっちゃるよ」とオファーされる。
歩き遍路するぞと心に決めていたのに、初日から車に乗ってしまったらなんだか諦めているみたいだなどと思い断っても、「前にも外人さんのお遍路さん乗せちょるけん。晴れの日に存分歩いたらええよ、雨の日は歩かんほうがええ」と言ってくれるので、わたしも折れて、結局早々にお接待を受ける。雨の降る道を、白い軽トラのなかで、今まで何人のお遍路さんに送迎のお接待をしたかなど話してくれる。言葉が通じなくても、通じるものがある証拠に、お接待をうけた遍路が礼として渡す納め札に、何人もの外国人の名前を見つける。きっと、日本人、あるいは四国の人のホスピタリティに感謝しただろうな、と想像する。
「4番から5番まで遠いでー。この雨じゃけん、5番までいっちゃる」わたしがいいですよ、歩きますよ、と粘っても、晴れの日にいくらでも歩いたらええとやはり譲らない。この調子で、5番、その日のノルマであった6番も超え、なんと7番8番まで結局乗せていってもらったのだ。
初日からとんだワープである。
もうむしろ、わたしのプライベートドライバーのようになっているおじちゃんに、こんなについてきてもらって申し訳ないと謝ると、「俺はとうに引退しちょるけん、暇なんよね。それで、あんた今日どこに泊まるの?そこまで送っちゃるけん」と送ることに命をかけている様子である。
四国の人は、老後の生きがいに、お遍路さんへのお接待があるのだなあと思った。実際、お接待を施したりお遍路さんとの交流を趣味にしている四国の方は多い。お遍路はそれだけ伝統的で、みんなに愛され、脈々と受け継がれている巡礼文化なのである。そんな見返りを求めないおじちゃんの優しさに驚きとともに感謝を感じながら、もうわたしはその日泊まるホステルの前に着いていた。
ホステルで同部屋になった2人の年配アメリカ人女性と友達になる。1人はもう80歳近いらしいが、見た目やしぐさからは想像できない年齢である。もう1人の旅のバディは「彼女、毎朝起きるとヨガをするんだけど、80であの体の柔らかさには毎回驚かされるわ」と話してくれる。彼女は50歳代、沖縄に数年ほど住んでいる。2人はカミノ・デ・サンティアゴというヨーロッパの有名な巡礼の道で出会った。50代の彼女のほうは、随筆家で、巡礼の旅行記を記して本を出版している。アメリカの長距離トレイル、PCTを女性で世界初踏破した「wild」の著者とも酒を交わしたらしい。2人とも、巡礼旅マニアだ。
彼女達は、明日12番の焼山寺に向かう。焼山寺までの道のりは12キロの山道で、昔から巡礼者を転がすような険しい道ということで遍路転がしと呼ばれている。
大抵の遍路は焼山寺に行くための山道に1日を費やして登山する。何しろ6時間の登山道なので、これが1番一般的な打ち方である。
1日目
2日目
雨の日も風の日も遍路道と言うが、(とか言いそうだが、)1日目はずっと雨、2日目は強風であった。幅広い吉野川を風が突き抜けて海へ出る。鉄橋を渡って9、10を打ち、また鉄橋を渡り戻る。覚悟はしていたものの、11番に着いたときには足はガクガク、まめもすでに出来始めていた。11番で出会った歩き遍路のおじさんに、焼山寺へ行く途中に宿泊場所があると聞いた。休憩して体力を取り戻していたし、まだ日も暮れていないし、少しでも焼山寺に近づいておこうと、藤井寺の本堂横にひっそりと口を開けている登山道に誘われるようにして入っていった。これが、怒涛の遍路ころがしの始まりであったとは露知らず•••
まず、おじさんのいう「宿泊場所」は到底わたしの想像していたものではなかった。ちょうど焼山寺への中間地点に、何やらおどろおどろしい、寂れた倒壊寸前の、吹きっさらしの東屋がある。水の滴る岩穴からはゲコゲコと蛙が不気味な音で迎えている。
まさか、この東屋のことか?と思いながらも、せめて壁が欲しい、小屋が欲しい、あのおじさんは小屋があると言っていたと祈りながら少し進むと、寒山にぽつんと工事現場にある休憩所のようなプレハブが、しかもかなり年季の入ったのが立っていた。
小屋を見つけた安心感もつかの間、この無人の極寒の小屋で、カロリーメイト二箱と夏用の寝袋とともに、3月上旬の山の中で一晩を過ごすことのリアルをまだ知らなかったのだ。
時計をなんども見返した。早く朝になってくれ、日よ昇ってくれと念じながら、寝袋の中で鼻をすすりながら朝を待った。こんなに太陽のお出ましを懇願したのは人生初めてではないだろうか。太陽が出ると、歩ける。歩くと、体があたたかくなる。これしか頭になかった。温度計は依然と3度を指している。足を温めるために寝袋の中であぐらをかいてその上に手と頭を埋める。かえるの冬眠スタイルだ。今度は膝が冷えてくるので、膝を抱えるようにポーズをかえる。そんなことを繰り返しながら、とうとう朝5時、ようやくあたりが薄明るくなってくる。ああ、ありがたい、朝が来た、朝が来た!昨夜の睡眠不足と寒さによる体力消耗で、いよいよ歩き始めてもほんの数十分でかなりしんどくなり止まってしまった。まだ1キロもいっていない。しかし進む道はただ一つである。のろのろと休憩をとりながら3キロくらい進んで行くと、また遍路ころがしの札がかかった急斜面に出くわした。先の見えない壁のような山道を前に、絶望を感じる。なんでこんな苦しいことをしているのだ、と思わず自問してしまう。しかし、もう後にも戻れない。重い膝を持ち上げて前に出し、その膝と杖に全体重をかけて左の膝を右より前一段上に持ってくる、また右、左、その繰り返しが、地獄のように辛いのだ。心を無にしてひたすら登っていると、いきなり、目の前に巨大な弘法大師がどーーんと現れた。もちろん像である。なんだこれは!と思い最後の力を振り絞って階段を登ると、どうやら墓地である。弘法大師の後ろには、巨大な一本杉がざわっと枝を広げてどーーんと立っているのである。そのまわりを、苔の生えた暮石が点々と囲んでいる。これはすごかった。幹の太さからして千年以上はここに根を張っているのだろう。わたしは近くにあった椅子に倒れこんで、しばらく一本杉をがらんと見つめていた。幹にこびりつく苔や、正面に空いた黒々しいうろ。何かが宿っている。そう感じた。もうそろそろ行かなくてはと思い、立ち上がった。歩き出したとき、さっきまでの体の状態が全く違うのに気づいた。軽いのだ。確か椅子に倒れこんだときもう無理と思っていたのに、また歩き出したわたしの体は、さっきまでのことが嘘のように軽々しく次の一歩を繰り出していた。椅子に寝そべっていた時間は数分だし、今までもそのような休憩は取りながら来ていたが、こんなに体の違いは感じなかった。一本杉のパワー以外にあるだろうか?わたしはもともと、他の多くの日本人と同じように、宗教とかスピリチュアルが苦手だ。しかし、これはスピリチュアルでもなんでもない、科学なのだ。あるいは、気づきなのだ。わたしは歩いているのではない。誰かに歩かされているのだ。それは、端的に言えばわたしの筋肉と脳を動かしている何万もの細胞である。その細胞は、わたしが昨夜食べたカロリーメイトによって動いている。山の木々がつくる、酸素を取り込んで動いている。血液の巡りによって動いている。目に見えないエネルギーを、他の何かにもらっている。
3日目
私というのはない
私というのはない。我というのはない。私は、私にほほえんでいるあなた。私は私の母。私は私の父、私は私の母の母。私は私の食べる食べ物。私は私の食べる食べ物の食べ物。私は動物の排泄物。私はその排泄物からできた肥料、私はその肥料で育った野菜。私は麦畑の緑。私はその葉緑素。私は光。私は酸素、私は水、私は一本杉、私は塩、私は細胞。私は川、私は土、私はマントル、私はマグマ、私は地球、私は原子の集まり、私は宇宙。私は野のそよぐ花、私は私が足で潰してしまったアリ。私はここからうんと遠いところで暮らしている、私と同じ瞳を輝かせている誰か。つじうちはるかというのは私のいう私ではなく、皆がつじうちはるかと呼ばない他の全てのことなのだ。そう他の全てのことなのだ。私のこの身体は、大いなるわたしのほんの一部の現象なのだ。わたしとは、働きのことなのだ。大いなるものの運動を動かしているひとつの働きなのだ。
エネルギーは常に生物から生物へ、有機物から無機物へ、また有機物へと回っている。エネルギーは留まることなく永遠に循環し、減ったり増えたりもしない。ただ姿形を変えているだけである。どうして悲しむことがあるだろう?どうして怒ることがあるだろう?どうして失ってしまったと嘆くことがあるだろう?全てのものは無限に、その姿かたちを変えて、ただ流転しているだけなのだ。なんと、般若心経の教えを一本杉に体をもって教わったのである。弘法大師様はさすがである。
たぬきのおじちゃん
焼山寺への道中、ケータイでマップをチェックしていると、どこからともなく「こっちだよーい」と聞こえてきた。地元の農家の方かと思ったが、菅笠に棒を持ったお遍路さんスタイルである。しかし、菅笠は黒、杖の先には輪っかがついていて、そして何故か上半身裸でリュックという出で立ち。朝8時、枝垂れ桜の段々畑の中。彼はもう焼山寺を登って帰ってきたところだと言う。「わたしはほら、行者さんなのよ、ジャパニーズモンク!!」と目を見開いて言う。日本語で話しているのになぜか自分の言ったことをカタコトの英訳で繰り返してくれる。「焼山寺までの道、いっぱい、石!これなんちゅうたっけ、ロック、ロック!」
「そうなんですね」とできるだけ日本人の発音で(といってもたしは正真正銘日本人なのに)答えた。結局最後までお互いにカタコトの日本語や英語を喋りながら短い対話を終わらせて、わたしは焼山寺方面に歩を進めた。振り返ってみると、おじちゃんにたぬきの尻尾が生えている!と思ったが、それは腰に下げた、たぬきの尻尾の毛皮が揺れているものであった。行者さんに始めて会ったが、みんなああなのだろうか。それともおじちゃんはやはりたぬきなのだろうか。
お祈りすること
各札所では、本堂と大師堂の二つをお参りする。読経した後、必ず手を合わせてお祈りする。3.11の前後は、震災の被災者や亡くなった方のために祈った。家族の無病息災もいつも祈っている。
最御崎寺の宿坊に泊まった時、久しぶりにテレビのニュースを見た。ニュースから流れてくるのは、ニュージーランドの教会での銃発砲テロ事件、旅客機の墜落、パリでの武装化暴動、シャワー室で虐待のために亡くなった女の子…
今までのどかな田舎道を何も考えず歩き続けていたわたしは、次々に流れ込んでくる世の中の暗いニュースに愕然とした。しかも、日本のテレビで取り上げられるニュースなんて世界で起こっている悲惨な事件のほんの一握りでしかないのだ。お祈りすることがまた増えてしまった。世界平和、なんてありふれた陳腐な言葉だが、実際、それを祈っていた。そして、将来わたしは世界平和に貢献するとさらに意思を固めた。
世界平和というのは、思ったより壮大ではない。平和は個人の平和から始まる。それはつまり、自分の平和である。自分の心が揺らいでいるうちは、世界の平和は望めない。浮き沈みに翻弄されている人間がどうやって他人を、そして世界を平和にできるだろう?まずは自分の心の平静を獲得するべきである。簡単なようだが、簡単ではない。これは小乗仏教の最たる、そして宗教と全く関係なくして、個人の精神的成長という意味でも、立派な修行である。だからわたしはお遍路をしているのだ。世界平和と、自分の平和を望みながら。
とよじさん
とよじさんは82歳の物腰柔らかなおじいさんである。おじいさんと呼ぶにはちょっと違和感があるほど、とよじさんはアクティブだ。日本各地の名山をほとんど上りきってしまって、歩き遍路ももう5回目になる先達で、いろいろ教えてもらった。とよじさんはゆっくり、ゆっくり、しかし確かな足取りで進む。1日30キロ以上歩いても疲れた様子もない。わたしがもう足が痛くて一歩も進めない、と思った時、その数メートル先にとよじさんが歩いているのを見て、何度助けられただろう。それから2、3日よく一緒になることがあった。わたしは元気な時はずんずん進み、とよじさんを追い抜くはいいものの、そのおかげで後の方で疲れてぜいぜいいっている間に後ろからとよじさんに追いつかれるといった具合だ。無計画なウサギとしっかり前進のカメのようだ。とよじさんとはそんなこんなで宿は違えど遍路道でよく出くわし、一緒に歩いたり追い越したり追いつかれたりする遍路仲間となった。とよじさんの何事にも動じない姿勢と優しさは、とよじさんのくぐり抜けてきた数々の修行の賜物である。大雨の剱岳で遭難し、10時間寝ずに歩き続けた話を聞きながら、そう思った。
トンネルの向こう
歩く、というのは究極の「空」であり「色」だ。いろんな景色を見ていろんな人に出会いいろんなことを思っても、それはやがて過ぎ去って行く。いっときの悲しみや苦しみや歓喜にその都度惑わされることがなくなると、突然真っ白な幸福がぽつんと湧いてくる。
お遍路中のたくさんの不思議な体験のなかでも、今でも覚えている感覚がある。高知県の灘を歩いていたときだ。前日よく眠れずに、たったの20キロほどで疲れてしまい、何度も休憩をとりながらなんとか歩き続けていた。国道のトンネルはほんの200メートルほどだったろうか、大して長いトンネルではなかったが、永遠と続く暗闇のように思えた。疲れも限界を越して、私は無になりながら交互に出る自分の足をボーッと見つめながら歩き続けた。
周囲がふっと明るくなり、爽やかな潮風が私の顔を上げた。トンネルを抜けたのだ。右手に麦畑が広がり、左手に海が広がっていた。そのとき突然、畑で仕事をする農家のおじいちゃんの皺くちゃの手に、一面の麦の緑ががらんとした青い空に揺れ、その空が海に向かって切れ目なく続いているのに、太陽の光がちらちらと粒になってわたしの頰に落ちてきて肌を温めることに、その全ての細胞と分子と因果にまったくワケもなく感謝する瞬間があった。すべてのもののつながりに、深い感謝を、心でも脳でもなく、身体全体で感じた。まるで感謝している私と、感謝されている対象や物体が小さな光の粒になって溶け合い、一体化するようだった。感謝というのは、身体感覚であると同時に、目に見えない行動なのである。それは、すべてのものとの完全な調和なのである。
こういう体験は、例えば雲より高い山の頂上にある雲辺寺を登って降りてきたとき、太陽の光に温められた時にも感じた。今考えると、ランナーズハイか、エウフォリアだったともいえる。とにかくある一定の身体の限界を越して無になり、邪念の支配を逃れると、透き通った眼で世界が見えるようだ。
そういった受容状態になると、突然全てのことがシンプルになるのに気づく。人生は実はあっけないほどシンプルだ。人の悩みは仕事や恋愛や社会的成功や人間関係やお金など、常に絶えない。周りの人の目を気にして綺麗にスマートに幸せに生きようとあれこれ焦ったり取り繕ったり落ち込んだりしている。でもそれは全て「空」なのだ。形あるものはいつか消えてゆく。どれだけお金を稼いでもいつか死んで灰になって誰かが持ってゆく。建物を建てれば壊れる、作れば消える、持てばなくなる。それで執着を捨てるといろんなことが透明になっていくのだ。人生は、呼吸する、食べる、寝る、歩く、誰かのために何かをする、愛する、死ぬ、それだけでいいのだ。人はカルマ(因)のために生まれてきて、それぞれに果たすべき役割、ゆくべき道があるのだ。その道は楽すぎず苦しすぎず、一人一人にとってまったく「丁度良い」。だから心配したり期待することもない、歩けば道は自然と目前に開かれてゆくのだ。
トンネルの向こうには、実は何もない。ただ道が続いているだけである。それがどんなに奥深く美しいことか、トンネルを抜けなければわからない。